日本基督教団 遠州教会

関係資料集

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信仰告白

日本基督教団信仰告白

我らは信じかつ告白す。

旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストをあかしし、福音ふくいんの真理を示し、教会のるべき唯一ゆゐいつの正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神のことばにして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体さんみいったいの神にていましたまふ。御子みこは我ら罪人つみびとの救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたびおのれを全き犠牲いけにへとして神にささげ、我らのあがなひとなりたまへり。

神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪をゆるして義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義のを結ばしめ、その御業みわざを成就したまふ。

教会は主キリストのからだにして、恵みにより召されたる者のつどひなり。教会はおおやけ礼拝れいはいを守り、福音を正しくべ伝へ、バプテスマと主の晩餐ばんさんとの聖礼典をり行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。

我らはかく信じ、代々よよの聖徒と共に、使徒信条を告白す。

我は天地の造りぬし、全能の父なる神を信ず。我はそのひと、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天にのぼり、全能の父なる神の右にしたまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とをさばきたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体からだのよみがへり、永遠とこしへ生命いのちを信ず。  アーメン。

信仰告白とは

信仰告白とは、個人がイエス・キリストに対する信仰を告白する意味で言われることもありますが、ここでは教会が自己の信仰を成文化したものを言います。また個人が信仰告白する場合も教会の信仰告白に基づいてなされます。

「日本基督教団信仰告白」は、「旧新約聖書に基づき、基本信条および福音的信仰告白に準拠して」制定されたものと「日本基督教団教憲」第2条に記されています。「教憲」とは日本基督教団の憲法のことです。「基本信条」とは、教会が最初の4〜5世紀の間に形成し、世界中のすべての教会で告白されている信条のことで、「使徒信条」、「ニカイア信条」、「アタナシオス信条」、「カルケドン信条」の四つがあります。「福音的信仰告白」とは、プロテスタント教会が告白しているもので、信仰義認(信仰によって義とされる、つまり救われるというプロテスタント教会の根本教理)を中心とするものです。「アウグスブルク信仰告白」、「ウェストミンスター信仰告白」、「ハイデルベルク信仰問答」などがあります。

基本信条も福音的信仰告白も「聖書に基づいて」います。聖書が信仰の唯一の根拠です。しかし聖書は大部な書物で、内容も多岐にわたっています。その中からいわば信仰の「骨格」を取り出したものが基本信条であり、また福音的信仰告白です。こう言うのは簡単ですが、実際は何世紀にも及ぶ教会内外との信仰的戦いの末に勝ち取られたものです。

「日本基督教団信仰告白」は、前文と「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」で始まる「使徒信条」から成っています。「日本基督教団信仰告白」は、「我らは信じかつ告白す」と主語は一人称複数ですが、使徒信条は「我は」と一人称単数で主語が異なります。これは、「使徒信条」がもともと洗礼志願者の信仰告白文として成立した事情によります。

信仰告白は、聖書から取り出した信仰の「骨格」であると同時に、信仰的に聖書を正しく読むときの指針でもあります。

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主の祈り

主の祈り

「主の祈り」

天にまします我らの父よ、
願わくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用のかてを今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄とは
限りなく
汝のものなればなり。   アーメン

主の祈りとは

主の祈りは、ルカによる福音書によると、主イエス・キリストが弟子たちの願いに応えて教えられた祈りです。しかし、上記の主の祈りは、主イエスが教えられた祈りとは一部分順序が異なるところや、付け加えられた文言があります。「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」は、旧約聖書「歴代誌上」29章10〜11節から取られたものです。主の祈りが整えられていく過程で付加されましたが、主の祈りの末尾を締めくくるにふさわしい讃美です。

「主の祈り」は、教会で最も重んじられてきた祈りです。今日においても世界中の教会で祈られていますし、個人の祈りとしても絶えず祈られている祈りです。

しかし、主の祈りは、必ずしもわかりやすい祈りとはいえません。主イエスご自身の祈りですので、人間的には決して理解しやすいとはいえません。特に前半の祈りは、キリスト者以外の人にとっては愚かしいものであるかもしれませんし、キリスト者にとっても十分理解し心をこめて祈ることは難しいかもしれません。この部分は神さまのための祈りですが、なぜこのように祈らなければならないか、そのほんとうの意味と必要を考えないで祈ることがありえるからです。キリスト者ならば誰でも主の祈りを暗記しているので、心ならずも口先だけで祈る危険もあります。

主の祈りだけでなく、すべて祈りは魂の深い嘆きと渇きの中から祈らないと、ほんとうの祈りではなくなります。神さまに届かない祈りになります。しかし、深い嘆きと渇きの中から祈るとき、主の祈りによって深い慰めと真実な力が加えられることを知るでしょう。

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十戒

モーセの「十戒」

第一戒 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

第二戒 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

第三戒 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

第四戒 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

第五戒 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

第六戒 殺してはならない。

第七戒 姦淫してはならない。

第八戒 盗んではならない。

第九戒 隣人に関して偽証してはならない。

第十戒 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

十戒とは

上記十戒の区分は「ハイデルベルク信仰問答」によっています。

十戒は旧約聖書出エジプト記第20章に記されていて、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、主なる神さまが力強い御手を持ってエジプト王ファラオの手から導き出した直後、神さまによりシナイ山でモーセを通してイスラエルの民に与えられました。

十戒は道徳あるいは倫理の根本を記したものでしょうか。確かにそのような一面がありますが、注意しなければならないのはキリスト者の倫理と一般の倫理とは異なります。第一戒から第四戒までを読むとただの倫理ではないことがわかります。

十戒は倫理というよりは、真実の神さまへの礼拝と切り離して考えることはできず、礼拝的生き方について述べているのです。十戒(もとの意味は十の言葉)は一つ一つの言葉が礼拝につながり、互いに切り離すことはできません。「十戒を理解することは、教会特有の生き方—すなわち父・子・聖霊への基本的な告白のかたち—を人生のなかで実践していくことだ。」(「神の真理—キリスト教的生における十戒—」S.M.ハワース/W.H.ウィリモン)。つまりキリスト者の礼拝的・実践的生き方を示すものです。

十戒は日本語訳では明確でない部分がありますが、一つ一つが二人称単数で記されています。「あなたは殺してはならない」というふうに。十戒の一つ一つの言葉は、わたしたちキリスト者の一人ひとりに向けられ、服従するように求めているのです。

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